昭和45年7月27日 朝の御理解
御神訓一「ご地内をみだりに汚すなよ」
金光教の、信心の独特の、私はみ教えだと思いますですね、ご地内を汚すなよというような、あ~、み教えがある、宗教というのはまずなかろうと思いますね、むしろご地内、土とか泥とかというものは、忌土ね、いわゆる汚れた土とこう買いて、忌土として、え~、尊重しないと、いうようなのはあります、けれども「ご地内をみだりに汚すなよ」と、いうように教えて下さる、いわゆる、う~教祖様のみ教えの中に、え~、勿論天地ということは繋がったものであるし、天の事だって地の事だって、「天は父なり地は母なり」と教えて下さるほどしですから、え~、どちらが大事ということはないけれども、教祖様は、あ~、とりわけ大地の御恩徳ということについて、え~、み教えを強調しておられますですね、その、一つ前にあります、ある御神訓に、「大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ」と、いう風にも、お説きになっておられます、ね、この、大地の中に指一本で、え~押すだけでもです、ね、天地金乃神様の大徳に漏るる所はないと言っておられます、そこでお道の信心をさせて頂く者は、あ~当然そのいわゆる大地、ご地内を大事にいたします、汚すということではなくて反対に大事に大事にいたします。
う~ん、ところが例えばあ~、こういうみ教えを頂かしてもろうて、なるほどそうだなぁと、天地金乃神様と言うて天地を拝ませて頂く、金光大神の御取り次ぎによってその天地の御恩徳を分からしてもらう、とりわけ大地の御恩徳を分からしてもらう、拝まして頂く対象なのですから、なるほど汚すようなことは出けないと分かして頂いて、決心をさして頂きますよね、みだれなことに大地を汚すようなことがあっちゃならんと、けれどもね、やはり知らん時には、は汚します、汚し、汚します、ね、平気で大地の、ね、上につばを吐いたり、ね、いわゆるたんを吐いたり、または大小便で汚したり、ね、汚い物をまきわしたりするようなことを平気でいたしますけれども、お道の信心を段々頂くようになってまいりますと、それが段々出来なくなってくる、ところがね、はぁご地内を、を~、汚すまい、汚してはならない、え~つばなんか平気で吐きよったけれども、もう吐けないと、吐かんぞと、こう決めるということ、心の中に誓うということを、もう随分やはり固い決心をしときませんとたったそれだけのことですらが出来ません、信心しよっても、ね、平気で大地を汚します、ね、それは天地の親神様、ほどしのいわゆる大きな神様ですから、私共が、ね、そこにつばを吐いたとか、大地を汚したぐらいなことです、罰をあてなさるようなこともありますまい、それを留めなさるようなこともありますまい、けれどもこちら側の方として、私共の方としては、拝む対象なのですから、清めた上にも清めるぐらいな気持ちがなからなければ、私はいけないんじゃないかと思いますですね、私はこの、いわゆるみ教えを頂きます時に、思われるのがいつも、私が福岡の修行中の、時分に大変こんにんして頂きました、あぁお婆さんでね、え~マナゴさんという方がおられました、新江という、また福岡の荒戸の教会から、まあだいぶん道のりもあります田舎の方です、え~何時も福岡の初代じゃない、吉木辰蔵先生からそのマナゴさんの話を聞きよりました、何時もお説教なさいます時に、その御婦人の話を聞かしてもらいよりました、非常に実意丁寧な信心をなさって、とにかく信者の家でやっぱ何十人という人が集まって、あの夜の御祈念なんかは一緒に御祈念をさしてもらう、ね、毎晩何十人かの人が夜の御祈念に参ってきて、まあマナゴさんのおかげ話しを聞かせてもろうて、え~帰る、謝恩祭なんかん時にはもう教会のような状態、明くる日はその信者さん方と一緒に、御供え物はもうリアカーに引いて、引っ張って、そのお供えを持ってきなさるというほどしの、その手厚い信心をされ、人が助かった、とりわけ、そのマナゴさんのこの~、ところで助かったのは胸の病気でした、もうそれは年頃に年頃に、そのいわゆる肺、肺病にかかった人達が、お参りをしてきますとね、もう沢山包帯を作ってありまして、その包帯にお神酒を湿して、御神っ、御神酒を胸にいっぱいつかれて、そしてお神酒をずーっと吹いてやられる、もうジュクジュクするごと、そしてその「生神金光大神様天地金乃神様」と、その拝んで、それでおかげを頂く人がもう次々と出けてきたですね、その方と私が、え~まあそもそも出合いと言うのは、福岡の教会の大祭の前日に、あの大掃除があってました、たらこの内殿の御掃除を誰でにもはなさらっ、されしらされません、たらあの吉木先生が「大坪さんあんた内殿の方のおかげば頂け」とおっしゃるから、はぁ勿体無いと思うて、うんならそんなら「おかげ頂きます」と言うて私はここの内殿の、お~、を一生懸命拭かしてもらいよったら、向こう側、まぁだここよりか広いですからね、向こうの端からそのお婆さんが一生懸命拭いてきなさった、私はこっち側の端の方から一生懸命拭いていく、もう全然知らんのですから、黙ってこう拭きよるんです、こうやって拭きよる、とこうやって廊下を拭きよってくるわけですよね、そすと拭いた時に、え~、その「あなた見知らぬご信者さんですが、どちらから、あ~お参りですか」というように聞かれますから、「私はあの善導寺のだいたい三井教会の信者ですけれども、今こちらの方で、え~商売をさしてもらっておりますから、毎朝こちらにお参りをさしてもらいよります」っち、「はぁ三井教会の大坪さんっちあなたんことですか」っち、「吉木先生の、あのお説教の中でいつもあなたのお話を聞きます」とこう言われる、ね、ならそのおばっ、「私はその新居のマナゴっていう者ですが、是非私の方へも来てからあなたのおかげを受けておられる話をして下さい、私の方には信者さんが沢山集まりますから、是非お出でて下さい」と言うて、聞かして頂いたのが、「私はマナゴと言います」と「あぁあなたがマナゴさんですか、実はあなたの事も吉木先生から善導寺にみえますと、あなたのお話をいつも聞かしてもらっておりましたが、お会いするのはまあ初めてですね」と、しかも神様の前の内殿で、こうお掃除をしながら、ならその、まあ知り合い名乗りあったわけです、ね、「大坪さん今晩でも良かけん来て下さらんか」ちこう言われますもん、「ならお邪魔いたしましょう」っち言うてから行って、お話、もう一週間にあげくお話に行きますともう、近所の信心のない方達も、もう家いっぱい集まってみえました、ぜっ、「善導寺の大坪さんがみえとりますから」っち言うてずっとふれまして回られ、というほどしにですね、信心の手厚い方であり、信心、その自分が助かれない人まで助かるというほどしの、おかげを頂かれた方、もうこの方は亡くなられましたけれどもね、その方が一番始めに、その金光様の御信心を導かれて、御神縁を頂かれた時にですね、頂かれたみ教えがこの「ご地内をみだりに汚すなよ」という、いわゆる「大地に地において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ」というみ教えを初めて頂かれた、その当時は、あのみはつ屋さんを、とこ屋さんをなさっておられた、ね、そしてお話を聞けば聞くほど、はぁ本当に今までは知らぬこととは言いながら、汚い水を、を~、例えばとこ屋さんですからね、色んな石鹸、汚い水やらを外へこうやってまいたりしよったことをです、もう芯から相すまんと思うて、まあそのかえでられた、だいたいこ方はもう非常に重傷のを~蓄膿症で難儀をしておられた、ことからお参りをされた、ね、荒戸に参ったある方は、ご存知でしょうけれども、荒戸の教会から電車通に出る、一つ手前に、またこう横に通っておる重次郎がございます、丁度そこの手前ん所まで行きました時に、い~もうそれこそいっぱい誰かがその大小便をですね、し散らかしてあるのであった、今教会で聞いてきたばっかりのね、ご地内をみだりに汚すなよと、本当に金乃神の大徳に漏るる所はないということを聞かして頂いたが、まあ知らんこととは言いながら、勿体無いことだぁと思うて、もう教会はすぐそこですから、取って返してお便所からバケツを借りて、それから新聞紙を借り、ほうきを借りて、そこを奇麗にお掃除をされた、そしてバケツで清めさして頂きながらです、ね、「本当に知らん事とは言いながら、何も知らん氏子があなたのご地内、あなたのお体をこんなに汚しておることをお許し下さい」と言うて、お詫びをされて教会に道具を返しに行かれて帰りがけそこの前を通る時にはね、鼻がもうすとすとするごとおかげ頂いちょったんです、それっきりおかげを、長年のその重傷である、大変なことですね、以来このマナゴさんがね、このご地内を大事にされるということはもうそりゃ徹頭徹尾でしたね、私はある時、おっ、あの参りましたら、丁度大掃除がありよりました、ですから私もお手伝いさして頂こうと言うて、大掃除のお手伝いをさして頂いて、あの、バケツに、雑巾バケツに水を、きれいっ、あの私がこうやって表にまこうとしたらもう裏の家の中から、「大坪さ~ん大坪さ~ん」もうけたたましゅうおらわれますからびっくりして「なんですか」っち言うたら、「あのそのお水は下水のあそこさん持って行っとって下さい、内には、あの、、」夏のこつですからね、こう降ったりするでしょう、「降ってはいけません」って言うわけなんですよ、もう本当にあのびっくりするほど、私はじかれたように、それこそ教えられる思いがいたしまして、なるほど徹底すると言うたらこのくらい徹底しなければいけんのだなと私は思いましたね、み教えを行ずるということはね、私はそのくらいなものが必要じゃないでしょうか、ね。
農家の方達が、例えば畑に肥やしをかけられる、これはもう言うならば当たり前、ね、金光様の御信心すりゃそんなら、田、畑にえ~、肥やしもかけられんかというような、ことでは決してないのです、だから言うならば、それはまあ当然そうするのが当たり前なんですけれども、ならご地内をみだりに汚すなよというはずっ反対は、それをまた清めようということなんだ、汚さんだけではない、清めさしてでも頂こうというような心なのです、ね、このお話を、あ~さしてもらい、このみ教えを頂きますとです、まだあの久富繁夫さんの御信心の始めの頃を、を思い出すです、やっぱりこのみ教えを頂かれた、そして今までとは、はそれこそ知らん事ながらです、平気で肥やしをかけておったことが相すまんと思いようになった、と言うてかけなければおられません、かけなければ出来ませんから、ね、「本当に神様汚のうありなさとうけれども、ちょっと神様よけといて下さいという思いでこやしをかけます」ち言われる、ずいっ、もう言うならば当たり前、もう当然だ、そういう考え方が信心にはいけませんですね、何かにつけて、こんくらいなこつなら人間じゃけん当たり前と、こういう考え方がもう実意を欠く元なんですよ、ね、もう肥やしをかけるのは、百姓が肥やしをかけるのはもう当たり前、それは当たり前、勿論当然かけなきゃなりません、けれどもです、心の中にです、「神様汚のうありなさろうけれどもちょとよけといて下さい」というような心持ちがね、私はおかげを頂く心持ちだと思いますね、そういう心持ちになることだと。
今日私はこの「ご地内をみだりに汚すな」という、ここんところを頂きましてね、神様にお願いをさして頂いておりましたら、あの、はく、結球白菜ですね、こう固く巻く白菜がありましょう、お漬物を漬けますね、結球白菜を、二つにこう切ったところを頂いた、私は御心眼に頂いた白菜は、はぁ奇麗な白菜だなぁと思うておったら、二つに切ったら中がね、あんまり固く巻いてないというような、白菜の、お~お知らせであった、どういうことだろうかと、勿論結球白菜というからには、それ固く巻いておるということが値打ちなんですよね白菜は、あれがゆるかったら、美味しくもないでしょうが、虫が入ったり、軽かったりするわけですよね、私はそのことからです、例えばこのご地内をみだりに汚すなよというみ教えを受けて、私共が信心をさして頂いて、み教えを頂いてですね、これは自分ではぁそうだと思うて心に誓い心に決めたら、誰でも出来ることでしょ、ご地内をみだりに汚さんぐらいなことは、ね、それをです、私は固くね、自分の心の中に頂くことだと思うた、いかっちもあの人の信心は実意丁寧そのもののようであってもです、ね、それほどしに、見かけはこう結球白菜なんだけれど、二つに切ってみたら、ね、ぶわぶわしよる、固く巻いていなかった、心がそれだけ堅固なものではなかったということになるのです、ね。
昨夜は、土居の地区の共励会で、いわゆる佐田さん所でございました、それで皆さん、お~、十時半も、やんがて十一時回る頃まで、共例をなさって皆さん帰ってみえられました、それで私皆さんが帰ってこられるのを、控えで冷やをもう一杯冷やしてから、もう帰ってみえるからという時間を待たせて頂いておりましたら、皆帰ってみえました、皆、あ~控えいっぱいに集まられ、昨日私ちょっとばかりその考えがあった、ですから、あ~皆さん共励会で疲れて帰って、参り、きとりますから、すぐさよならと帰られていいんですけれども、私はお話しをし出した、または、昨日、一昨日から昨日にかけて、え~、甘木の、お~平田さんのお話しを頂きましたから、その結果も皆さんがどんな風に受けたかというようなことも聞きたかったから、まあお話さして、さして頂いた、まあそうしておる内にまあ十一時になりました、何とはなしに、また先生は今日は腰ばおーしとしちゃるがまたえらい話しゃしゃるじゃろうちいうごたる雰囲気があるもんですから、その皆がもうむじむじし出してから、十一時になったが最後「先生もう十一時になりましたから御無礼します」「ああそうの、なら帰ってよかばの」と言うて私がまた申しました、「あんただん昨日から今日にかけてからどういうことを稽古したか」と、ね、それこそ平田さんのお話しを頂きながら、もう繰り返し繰り返し、ね、もうそりゃ「もうしばらく休んで下さい」と言うてもね、休まれない、もうあの夕方あの、夕食の、から、「次のお話の時間まで、時間がありますから、ちょっと横になって、え~頂きたい」っち言うてから、私達の部屋へと申しましたら、「いいえもう寝らんでんええ、誰か私の話しの相手になる者はおらんですか」っち言うてから言われる、それはもう、そのなんち言うですかね、その熱情たるや、もう恐れ入ってしまいますね、もう山、七十にもなられる方がですよ、ずーっとお話をし通し朝から、しかももう熱烈なもう、それこそ(タコを叩かん?)ばかりの、その熱意を持ってお話しをして下さいますもん、けれどもその熱の、そのだから、私はお話しの内容よりもです、あの熱に動かされますね私共は、ね、うんならそれって、もう平田さんのあそこを頂くべきだと、ね、と言いながらそれを頂かずしてから、「さあ先生こしごしと話そうか」と言うたら、もう帰るごとてごそごそする、ようなことで平田さんのお話を頂いた値打ちはないじゃいかと言うて、(?)、早よ、もう帰らんの帰らんのと言うてまあ帰らせましたけれど、ね、その後に私また神様にお礼をさして頂いておりました、そしたら御心眼にね、この、ここの天っ、石庭ですね、あの、あの真ん中の一番大きい石はここでは天地岩と呼んでおる、それにこの頃山戸さんに作って頂いたしめ縄を私ははらして頂いておる、毎朝私はここへ朝の三時半に出てきてここで御祈念をする場ですから、あれにしめ縄をはらして頂いた、その天地岩にしめ縄をはっておるところを私は、皆さんが帰った後にお礼をさしてもらいよったら頂きましたから、それからまた私は感じることなんですよね、あのしめ縄ということはどういうことかと言うとね、勿論、お~不浄をよりつけっ、よせつけないといったような意味もありましょう、あの~ん~お相撲さん達がしめのような物をこうしましょう必ず、ね、横綱はあの大きなのをしますよね、横綱をはるとこう言う、あれはしめの形をとってあります、あれはね土俵上でね、もし万一投げ殺されても不足は申しませんということらしいです、しめ縄をはっておるということは、それから私は考えたんです、例えば金光様の御信心をさして頂く、ね、そしてまあ親先生の信心に帰依をする金光大神の信心に帰依をする、天地の親神様の御信心が段々分からして頂くようになる、その稽古の過程においてです、ね、よし例えばなら神様から投げか、殺されるような事あっても、信心さして頂いて段々難儀な事になってくるという例は沢山ありますからね、いわゆる神様が鍛えて下さるのですよ、ね、もうそれこそ投げ殺されてもかまわんと、ね、例えば「はぁ先生は今日はこしごしと話すつもりでおるけん、もう眠る倒れるまでいっちょなら話聞こうか」というくらいなね、私は固い心というものが、なからなければ本当の御信心は出来ません、ね、その決意その頑固たる決心がね皆にないのだということを気付きました、ね、親先生のおっしゃる通りですって頂いておりゃ、ね、おかげ頂くということだけじゃない、親先生がおっしゃる通りしとりゃ、右と願って左、左と願って右と反対に反対に芽が出るようなこともある、信心しよってどうしてというようなことあるけれども、もうその頃にはどうしてじゃないこれはまぁだ信心が足りんのだ修行が足りんのだと一段と信心を進めて行く道も覚えておる頃なのです、ですからそういう時にです、これはこのまま親先生の言う通りにしよるならもう、それこそ親先生から投げ殺されてしまうぞと思うてもです、なお殺されても、ね、それこそいとわんというような信心が大事じゃないかと思う、いわゆるしめ縄はっとかにゃ駄目です、ね、それを私は今日の鉄球白菜と言うならです、ね、固くまいた白菜のことじゃなかろうかという風に思わして頂いた、見かけは立派な白菜のようにしておるけれども、押さえてみたらぶわぶわ、二つに切ってみたら中はこんなに間が空いておったと、そこから水が入って腐れたり、そこから虫が入って、私は信心を、をいわゆる汚してしまう、といったような結果にもなりかねないと思うのです、ね。
「ご地内をみだりに汚すなよ」というみ教えから、結球白菜からしめ縄のお話になってまいりましたですね、ご地内をみだりにけがすなよということでも、はぁそうだと分かったらです、これから金輪際汚すような汚すようなはせんぞと私は腹に頂いて決めたら、汚さんだけではない人がひ散らかしとんなら、それを清めて行くくらいな気持ちが信心さして頂く者の上には必要です、それには固い心が必要なのです、結球白菜です、ね、いよいよ固い心を持って、信心の稽古をさして頂くからにはです、よし、なら先生から投げ殺されても、天地の親神様から投げ殺されても、いといませんと私は証を見せて行くような信心、言うならしめ縄をはって御神前に出る信心、お相撲さんが土俵上に立った時に、ね、例えば相手に投げ殺されても文句は言いませんというような決意の元に土俵上に上がるように、信心の土俵上に私共もそのくらいな決心を持ってです、ね、教えに取り組ましてもらい、信心の稽古をさして頂くというそういう姿勢が段々出けてこなければなりません、ことをまあ「ご地内をみだりに汚すなよ」というみ教えから段々そのような風にお話が進展してきましたね。
どうぞ皆さんの信心を、ね、一つ本当に、え~良く見当してみて、はぁもう金光様は有り難い、金光様からはもう動かんと固い決心といったようなものを持っておることは有り難いけれど、ね、教えに取り組まして頂くにいたしましてもです、そのくらいな一つの堅固な、あ~、思いを持って、取り組まなければならないということを、申しましたですね。
どうぞ。
入力者:誠輝